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コンピューターにおける無制限の有限について

1993

artist
江渡浩一郎
at
***

short summary

コンピューターを使うことにどのような意味があるのかということ を絵画とコンピューターグラフィックの関係を例にとって考えてみる。コンピューターを使って絵を作る。これはいわゆるコンピューター グラフィックス(以下CGと略す。)というものだ。僕は大学に入って、 はじめて本格的にCGというものにふれた。それ以前はちょっとプロ グラムをかいて、画面になにか絵を出した程度で、CGがどういう意 味をもっているのかは考えていなかった。大学で習ったCGというのはこのようなものだった。まず、shell と いう簡単な言語のようなものを使って、どのような形を作るのかを 書く。それをプログラムにわたし、コンピューターに絵を描いても らう。このとき、絵を描いてもらうのに、命令を言葉であたえると いうところが非常におもしろかった。同時に非常に奇妙な感じもし た。ちょうど絵と言葉との間に一対一の対応関係がなりたってしまっ ているかのような感じがしたのだった。ミシェル・フーコーによる『これはパイプではない』や『言葉と物』 という本を読んだとき、ちょうどこの本は、このような感覚につい て書いてあるのではないか、という気がした。そのとき感じたこと をまとめてみようと思う。

これはパイプではない

十五世紀から二十世紀に至るまで、西欧絵画の世界は、二つの原理 に分離されてきた、とフーコーは語る。まず、第一の原理は、類似 によって表象を示すものと、差異を通じて語るものとの分離である。フーコーは、マグリットの『これはパイプではない』という作品の 分析を通じて、これを示した。『これはパイプではない』という作 品では、まず、画の上方に、一本のパイプの図像が描かれている。 そして、その下には文字によって、こう書かれている。「これはパ イプではない。」

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『これはパイプではない』ルネ・マグリット

この場合、パイプの図像が、類似によって人の目に示すもので、 「パイプ」という言葉が、差異を通じて語るというわけだ。文字というのは、ある文字とある文字とが似ていない、違いがある というところに意味がある。文字それ自体がなにかに似ていること に意味があるわけではなく、違うということがわかればそれでいい のだ。それに対して、図像というのは、あるものにどれだけ似てい るか、類似しているかというところに意味がある。

西欧絵画においてはこの二つの要素は厳然とわけられていた。絵画 の中からは念入りに言語的要素は排除されていた。言語的な要素は タイトルや、説明、人物の名前などというかたちで示されることに なる。ここで、絵画的要素と言語的要素は二つに分けられ、その間 になんらかの従属関係が保たれることになる。

たとえば、図像を説明するための文がはいることがある。人物の名 前であるとか、なにが描かれているかの説明とか。この場合、文が 図像に従属している。文の説明のための図像がはいるということも ある。どちらにせよ、どちらか片方が、もう片方に従属している。 この従属関係がひっくりかえることもあるし、どちらがどちらに従 属してるかはっきりしないこともあるが、どちらにせよ、対等の関 係として、両方が一度に与えられることはないのだ。これが第一の原理、造形的要素と言語的要素との分離である。

しかし、これに対してクレーは、船や人や家などの姿は、あるひと つの形態であると同時に、文字記号の要素でもあるのだ、と主張し た。クレーの絵画の中にはしばしば矢印がおかれている。この矢印 によって、類似でもあり、また差異を示すための文字記号の原始で もあるものを表現している。このことによってクレーはこの第一の 原理をのがれているのだ。

この絵画的なもの(類似により示すもの)と、言語的なもの(差異に より示すもの)とが、画面の上ではない、どこか架空の共通の場所 で出会うようにすること。これが第二の原理だ。

あるものがなにかに似ている、というだけで、そこにすぐに「これ は何なにである」という言説が誘いこまれてしまう。造形的なもの と、言語的なものは、その架空の場所で出会う。そしてその場所が あくまでも架空のものであることは意識されず、「自明で月並なも の」としてとらえられる。

カンディンスキーは、この第二の原理をくずした。たとえばある線 やある形を描いたとき、それがなにか別の物体に似ているというわ けでなく、その線や形や色彩そのものが、物体などと対等の関係を もちうるのだ、と主張したのだ。 フーコーは、この「これはパイプではない」の画像は、ある操作が なされたあとに存在していると語った。それはまず、パイプの図像 でもあり、かつ同時にパイプという文字でもある、カリグラムがつ くられ、それが作られるやいなやすぐさま壊され、あとかたもなく 消された、というのだ。

カリグラムというのは、たとえばある文章がひとまとまりで、ある 形をなしている、というようなものだ。文章、文字の集合などがか かれているのだが、その文字の配置や形の集合が、造形的に、ある 形に見える。そのような書法のことをカリグラムという。 『悪企みがあるのは、結果の単純さのせいで目に見えなくなっては いるものの、それだけがこの結果の惹き起こすはっきり定まらない 居心地の悪さを説明できる、そんな操作の中にである、という考え を私はふり払うことができない。その操作とは、マグリットによっ て秘かに作られ、ついで注意深くこわされたカリグラムである。』『これはパイプではない』ミシェル・フーコー pp.20

つまりいったん、カリグラムを作る、造形的要素と言語記号の融合 を作る、という操作をしたあと、そのすぐあとにその痕跡を残さな いように消してしまうのだ。これにより、マグリットは、第一の原 理も、第二の原理も覆すことに成功した。フーコーはそう語ってい る。また、マグリットはここで、類似から相似を切り放し、前者を後者 に対立させた。類似においてはオリジナルとなるものが存在し、類 似した物はすべてその母型からの距離によって序列化される。しか し相似の関係においては、オリジナルとなるものは存在しない。ど ちらの方向へも無限につらなるような系列におかれることになる。

相似は相似したものから相似したものへの反復的な関係がうまれる。 相似という関係においては、どこかに本物というものがあるのでは なく、ただひたすらに反復があるのみなのだ。

徹底して表層にとどまること

マグリットは、絵画の同一画面上に、造形的要素と言語的要素を混 じり合わせ、西欧絵画に存在していた二つの原理を覆した。ある一 つの画面の中で、言語的要素と造形的要素のどちらが本物なのか、 というような問を、ずらす形で二つの要素の違いについて扱ったわ けだ。しかし、近代の西欧芸術をめぐる問題を考えるとき、絵画の 画面の中での制度だけでなく、それをとりかこむ周辺との問題、美 術館や画廊といった画面を越えたところにある制度について考える 必要がでてくる。マルセル・デュシャンは「泉」という有名な作品でこのことを扱っ た。既製品のトイレの便器を展覧会場に持ち込み、それにサインを して、作品として展示したのだった。作家がサインをしてさえあれ ば、それが便器であっても、それは芸術であるということになるの だ。その便器は、なにか特別なものだったわけではなく、いくつも 複製されるものだった。デュシャンはこのことを「レディメイド」 と呼んだ。

これはつまり、いくつも簡単に複製されるものだとしても、作家が サインをして展覧会場の中におけば、それだけでも作品になってし まう。そのような作品とそれをとりかこむ展覧会や美術館などの状 況との関係を作品化したのだった。

またその一方で、ウォーホールという作家もいる。彼のつくった作 品も複製可能なものだった。彼は自らのアトリエをファクトリー、 工場とよんだ。いくらでも複製されうるものが芸術になりうるのだ ろうか。ウォーホールは、自分のつくったものが芸術であるかどう か私は責任をとらないが、あなたがそれに芸術作品としてお金をは らってくれるのなら、それは芸術なのだろう。そのような形で複製 可能な時代における芸術を定義したのだった。

とすると、こんどはある画面の中での関係だけではなく、絵画とそ れをとりかこむ環境との関係を考えなくてはいけなくなる。マグリッ トは、「これはパイプではない」とかいたのだが、こんどは「これ は芸術ではない」とかかなければいけなくなるのだ。

マグリットから出発した作家として、マルセル・ブロータスという 人がいる。この人は、デュシャンの「泉」と、マグリットの「これ はパイプではない」という二つの作品を方法論的出発点としている。 フーコーのマグリット論は、ウォーホールの登場を予告しつつ終わっ ているのだが、この人は、ウォーホール、デュシャンを通過した上 で再来したマグリットという感じである。

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『MUSEUM MUSEUM』マルセル・ブロータス

ブロータスによる『ミュージアム、ミュージアム』という作品があ る。この作品は画面の上に、縦4つ、横4つの合計16個の金の延べ棒 がならんでいる。そしてそれぞれの延べ棒の下に、第一列目のマン テーニャ、ベリーニから、第三列目のデュシャン、マグリットまで、 過去の画家の名前がならんでいる。ところが第四列目は、左から、 「イミテーション」(英)「コピー」(独)「コピー」(仏)「オリジナ ル」となっている。つまり、画家の価値というものは、美術館にお ける価値、つまりマーケットというものにより決まるが、しかしそ こで決められた価値というのは、「イミテーション」かもしれない し、「コピー」であったのかもしれない。もしかして「オリジナル」 かもしれないが、それとて、金の延べ棒のレッテルとしての意味し かない。同じレッテルだということで、「オリジナル」と「コピー」 の間に差はないのだ。そのような認識が、見事に作品となってあら われている。

それならすべては金の延べ棒ということになってしまうのだろうか。 いやそうではないだろう。作品、作字の間のどこかに差異はなくて はならない。世界は文節化されて理解されている。言葉によって理 解されているのだ。マグリットの、相似と類似の関係においても、その差異の問題はあ らわれている。類似においては、なにかオリジナルとなるべきもの が設定され、つねにそこからの距離というものが測定しうる。しか し相似においてはオリジナルというものが存在せずに、ある二者間 で相似の関係をとりむすびうる。どちらかがよりオリジナルに近い、 ということはなしに、お互いがお互いに似ているという相似の関係 が序列化されることなく、しかしある関係をもって並んでいる。

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『もう森へはいかない』マルセル・ブロータス

差異のうまれる過程、それを表現したのが、ブロータスの『もう森 へは行かない』である。これは、横2、縦3のダイアグラムになって いて、左上には「a」という文字がかかれている。そしてその右に は斜線の入った「a」の文字。ちょうどはさみで切られているよう にみえる。そして左上の「a」の下には、右上の「a」を切ったもの だろうか、「はさみ」がかかれている。そして奇妙なことに、その 右にはまた同じように斜線の入った「はさみ」。これもまた切られ ているのだ。左上の3個だけとると、ちょうど「世界を文節化する」という過程 を表現したものになるだろう。まだ切れ目がはいっていない世界、 認識以前の世界に、はさみがはいる。その時点で認識や言葉という ものがはじまる。しかし「世界を文節化する」という行為そのもの、 これもまた世界の一部なのだ。それもまた文節化されうる。つまり 「「文節化する」を文節化する」となる。それがダイアグラムの右 下にあたる。

ちょうどマグリットが「これはパイプではない」で、パイプとパイ プという言葉のずれを、作品として表現したように、ブロータスは、 文節化するという過程を文節化するということもありうるというこ とを作品化したのだった。また、この作品は、プラスティック板を型押ししってつくられてあ る。つまり、工場で生産されるもののように、いくらでも複製され うるのだ。この意味でも、ウォーホールの作品を継承してつくられ たのだということができるだろう。

ダイアグラムの一番下には「もう森へは行かない。月桂樹は切られ た/切られてない。」と書かれている。森は、いってみれば幻想の 世界ということだろう。森の中には、文節化、言葉により世界に亀 裂が入る前の空間が存在していると見られている。しかし、ブロー タスは、森へ行こう、文節化以前の原型たる世界に戻ろうとするこ とに対して、あからさまに「もう森へは行かない」といいきってし まう。文節化された世界に対して、それ以前の世界をもちだし、比 較の対象とするのではなく、いってみればあえて逆に文節化をおし すすめようとする。そして例えば、文節化すること自体を文節化し てしまう。そのようにして、文節化することそのものを文節化にお けるパラドックスにおいやってしまうのだ。

ブロータスは「鷲」美術館という展覧会のシリーズで、すべての作 品に「これは芸術ではない」という説明をつけくわえた。ブロータ スは、マグリットの「これはパイプではない」からはじまり、デュ シャン、ウォーホールを通過して、「これは芸術ではない」の地点 までたどりついたのだ。80年代に入ってから、シミュレーションアートと呼ばれるアートが うまれてきた。シミュレーションアートとは、たとえば広告の形態 を使って(シミュレートして)、そこにアーティストの主張をもぐり こませたりする、という形式のアートである。ジェフ・クーンやバー バラ・クルーガーなどが代表的だ。しかしこの手法は、初めからある種の矛盾をはらんでいる。広告や 商業的な製品の形態を借りて、自分の主張を作品にしようとしてい るのだが、元の商品や広告との十分な差異を作れなかったら、当然 元の商品や広告と見分けがつかなくなってしまう。かといって、まっ たく違うものにしてしまったら、「シミューレション」ではなくなっ てしまう。

たとえばジェフ・クーンは、ギャラリーにアクリル板で囲った電気 掃除機をおいた。しかしこれはどう見ても、デュシャンによる「泉」 という作品の焼きなおしにすぎない。

それから、今年行われたYMOのコンサートの広告等に、バーバラ・ クルーガーが参加していたのだが、これなどもまったくふつうの広 告にしか見えなかった。彼女のもっている政治的なメッセージなど はまったく切り放されていた。単に、最新のアートの流行として、 消費されていたといっても過言ではないだろう。もちろん僕は、ハー バラ・クルーガーも非常にすぐれたアーティストの一人だと思う。 彼女の作品にある理論はとてもすぐれていると思う。しかし資本主 義社会の中では、そのバーバラ・クルーガーでさえ、単なる商品と 見分けがつかなくなってしまうことがあるのだ。

このように見てみると、シミュレーションアートのとっている立場 は、非常にあやういものだ。一歩間違えば単なる商品の一つと変わ らなくなってしまう。ではそのような中でアートでありつづけるに はどのような道をとったらいいのだろうか。シミュレーションとい う手法を逆手にとった作家として、ハンス・ハーケがいる。この人 は、マルセル・ブロータスに影響をうけたと語っている。

ハンス・ハーケによる1987年の 『THE SAATCHI COLLECTION (Simulations)』という作品がある。こ れはいわゆるインスタレーションで、部屋の壁に棚のようなものが もうけてあって、その上にいくつかの物が並んでいる。 その棚の上には、右側に何枚かのパンフレットがは いったバケツ、左側に男の頭の部分の置物(メッキがかかっている)、 そして中央には、ある会社の旅行キャンペーンのパッケージが3つ おかれている。そして、その上にはポスターのようなものがはって あって、そこには男の顔の写真と、レーニンの言葉「あらゆるもの はほかのあらゆるものと結び付いている」がかかれている。

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『The Saatchi Collection (Simulations)』ハンス・ハーケ

これだけではこの作品にどういう意味があるのかわからない。この 作品のひとつひとつの要素を解説してみよう。まず、中央におかれ た旅行キャンペーンの3つのパッケージ。これは「KMPコンプトン」 という南アフリカにある広告会社によるものである。南アフリカへ の旅行を誘う文面がかかれている。右の棚にのっているパンフレッ ト。これは同じく「KMPコンプトン」によるアパルトヘイト政策を 支持するパンフレットだ。そして左の棚にのっているメッキのかかっ た顔の置物。これは実はレーニンの顔で、メッキのかかっている様 子はジェフ・クーンの「ラビット」という作品にそっくりだ。そし て、壁につくられた棚の上にさまざまな物がのっているというこの 形態、これはハイム・スタインバックという作家の展示方法とよく 似ている。壁にかかったレーニンの言葉。これは実はサーチ社とい う広告会社の年次報告からの流用である。そしてそこにある男の顔 は、チャールズ・サーチという、サーチ社の創立者の顔だ。サーチ社というのは、イギリスの広告会社である。モーリスとチャー ルズのサーチ兄弟が一代で築きあげた会社で、現在では世界でも有 数な広告会社になっている。サッチャーのキャンペーンを担当した ことなどで有名だ。また、大規模な現代美術のコレクションをもっ ていることでも有名。シミュレーションアートのコレクターでもあ る。ジェフ・クーンやハイム・スタインバックという作家は、その シミュレーションアートの代表的な作家であるといっていいだろう。 南アフリカの広告会社「KMPコンプトン」というのは、実はそのサー チ社の傘下なのだ。「KMPコンプトン」は南アフリカで、アパルト ヘイト政策支持のためのキャンペーンをはっている。つまりサーチ 社は、アパルトヘイト政策に荷担していることになる。そしてその サーチ社は、シミュレーションアートへの肩入れもしている。そし てレーニンの言葉「あらゆるものはほかのあらゆるものと結び付い ている。」結果的に、この作品は総体で、シミュレーションアートとアパルト ヘイト政策は「結び付いている」、関係があるということを表現し ているのだ。 ここで作品の成り立ちかたを考えてみると、ほとんどの要素で、相 手(この場合はサーチ社とシミュレーションアート)の手法を使って いることがわかる。たとえば作品の展示の仕方はシミュレーション アートのものだし、レーニンの言葉はサーチ社の年次報告からの流 用だ。

つまり相手の手法をつかって相手の立場を批判するという手法をとっ ている。実はそもそもシミュレーションアート自体が、そのような ものとして存在していたのだった。相手の手法をシミュレートして、 相手の立場の批判をする。ハーケはさらにまたその手法を利用して、 シミュレーションアートの立場を批判したのだった。2重な意味で 困難な手法を選んでいるわけだ。

もともと、シミュレーションアート自体が反体制として存在してい たのだが、いずれそれらが主流になることを見越して、それにある 程度同調しつつも、そこからさらにまたマージナルな位置に自らを 置き、そこでしたいことを勝手にやっているという微妙なスタンス。 そのような微妙な位置をとっている。ちょうどマグリット、ブロータスのとった立場もこのようなものだっ た。

ブロータスも、当時の反体制運動だったボイスらの活動に対して、 そのような立場をとっていた。1972年のデュッセルドルフで、ブロー タスは自らをオッフェンバック、ボイスをワーグナーに擬したボイ スへの絶縁状を発表している。マグリットの場合は、当時のシュールレアリスムの本流である、 ブルトン一派がそれにあたるだろう。

マグリットの面白いところは、徹底的に表層にとどまるところだろ う。ブルトン、ダリなどのシュールレアリスト一派だと、たとえば 砂漠のイメージなどのように、絵画として成立する前に、豊饒な世 界の原型とでもいべきものがあって、そこからイメージをひきずり だすという感じだ。しかし、マグリットの場合は違う。記号として あらわされた世界がすべてなのである。

その意味で、マグリットというのは同じシュールレアリストに分類 されるけれども、ダリなどとは距離をおいたところに位置する。マ グリットは、絵画という表層に徹底してとどまるのである。

たとえばマグリットの『これはパイプではない』でも、表面的、画 像的には、いかにもパイプらしいパイプ、いかにも文字であるよう な文字がかかれていた。しかし、にもかかわらず、それらが別の架 空の場所で出会っているという、見ることに潜むずれをひきだして みせた。ブロータスも、森へいこうとさそうことに対して、「もう森へは行 かない」と否定し、文節化の領域にとどまる。

ハーケの作品において存在する論理は、作者の思想として作品の裏 側にひそむ理論ではない。そうではなく、逆に現実にそうであると いうあからさまに事実をつきつけてしまうという論理。作品の裏側 ではなく、社会の裏側にひそむ現実を作品として提示してみせるの だ。 ここに共通しているのは、徹底的して、目に見えるもの、表層とし てあらわれてしまっているものにとどまろうとする意志である。他 のアーティストが、自分のかかえる幻想の世界としての作品をつくっ ているときに、幻想なんてないんだと、目に見える世界が全てなん だと表層としての世界にとどまるのだ。

無制限の有限

フーコーは、マグリット論の最後で、「いつの日か、画像そのもの とそれにつけられた名とが、或る系列に沿って際限もなく転移され る相似によって、身許確認を奪いとられるときがやって来る。」と 語り、ウォーホールの登場を予告した。そのとおり、ウォーホール の作品は際限もない繰り返しに特徴される性格をもっていた。相似 とはオリジナルの欠如した関係であって、それをつきつめたのがウォー ホールだった。しかし、現代の社会における特徴は、単なる繰り返しではないよう に思う。際限もない繰り返し、それも同一のものの反復は、いわば 工業社会におけるルールだ。そうではなく、繰り返しにひそむわず かな差異が、繰り返す過程で膨張し、際限なく差異を生みだし続け る過程こそが、現代の特徴なのではないだろうか。

ブロータスはウォーホールと同じく複製可能な作品をつくったのだ が、そこに文節化、差異化の関係をもちこんだのがおもしろい。た だ複製を、同じものができるものとしてとらえるのではなく、複製 されることによりそこに微妙な差異ができる、そのことを問題にし ているように見えるのだ。

またときには、繰り返しにひそむわずかな差異が、繰り返しの過程 で膨らみ、予想のつかない形に変形することもある。繰り返しにひ そむ暴力とでもいうべきだろうか。たとえば、真白い紙を複写機で コピーする。当然でてくるのは、また白い紙なのだが、ポツンと黒 い点がうたれていたりする。コピーの過程で混じりこんだノイズな のだろう。しかしその紙を何回もコピーするとなると、その小さな 点は、やがて拡大し、増殖し、奇妙な形をとるようになるのだ。た だ繰り返すこと、それがあるダイナミズムをはらんでしまうことも あるのだ。

トーマス・バイルレという作家による『Cannon meets UTAMARO』の ような作品は、このことをあらわしているようにみえる。この作品 では、キヤノンのカメラが、コピーされ、さまざまな形に歪められ て、うたまろのかいた浮世絵の形になっている。コピーによりさま ざまな形にゆがめられたカメラが目や鼻という部品になって、ひと つの絵を作り上げている。写真というものは、現像すればいくらで も複製ができてしまう。その意味で、オリジナルというものには意 味がない。浮世絵もまた複製可能な芸術として有名だ。浮世絵とい うのは、よく知られているように、版画という技術を用いて作られ ていた。そのため浮世絵は非常に安い値段で何枚もの複製を作るこ とができた。バイルレは、浮世絵は、現在の複製可能な時代におけ る美術のありかたのプロトタイプを作ったのだといっているのだ。

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『Cannon meets UTAMARO』トーマス・バイルレ

『この800年を見据え、いま現在、私の関心をそそるのは、ゴチッ ク・カテドラルをこの世に誕生した最初のエンジン---ディーゼル のように---と見なすことだ、「ランス大聖堂の石積み」は、私に は、モーターに見えるのだ。』トーマス・バイルレ

そして現代を特徴づけるのは、やはりなんといってもコンピューター だろう。コンピューターにおいても、際限なき繰り返しというのは 可能だ。というより、現実世界の繰り返しの場合は、白紙のコピー に見られるようになんらかのノイズが混入してしまうのだが、コン ピューターにおいてはまったくノイズなしの複製が可能だ。つまり、 複製とオリジナルとの差異はまったくない。単なる複製というのは まったく意味をもたない。ウォーホールのした画像の繰り返しのよ うなことは、コンピューターの内部では意味がなくなってしまうの だ。ではどこに意味が見いだせるだろうか。それは繰り返しにおける処 理を示すalgorithmというところだろう。コンピューターは、ある 明示された処理手順にしたがい処理を行う。その処理手順のことを algorithmという。その処理手順のところに、単なる繰り返しを行 えと明示すれば、もちろんコンピューターは単なる繰り返しを行う のだが、そんなことをしても意味はない。ふつうは計算なりなんな りの問題をとくために処理を行わせる。このときの処理手順は、な んらかの言語を使って与えられる。

そしてこれはCGを作るときも同じだ。CGの場合、結果として画像が でてくるのだが、それを作るにも、処理手順は言語を用いて与えて やらないといけない。つまり言語的要素である処理手順をコンピュー ターに与えてやると、そこで画像が生まれる。

西欧絵画の世界では、言語的要素と造形的要素は分離されていた。 そしてその二つは、どこか架空の共通の場所を設定して、そこで出 会う。マグリットは、カリグラムを作るという操作を通じて、その 原理を壊した。

しかしコンピューターの内部では、algorithmに基づく反復を通じ て、その二つの要素は直結されてしまっている。架空の空間ではな く、実体としてのコンピューターという空間において、言語的要素 と造形的要素は、共通の場をもったのだ。

algorithmというのは言語的要素、つまりプログラミング言語から なりたっている。そこで言語によりどのような画像を作るのかを決 定するのだ。つまりたとえばそこに「ここには球がある。」と書け ば、そこには球の画像がでてくる。本来、類似により指し示される はずの形態というものが、記号=差異の集積である言語により指し 示されてしまっている。つまりここでは、「これはパイプである」 なのだ。

絵画の時代には存在していたはずの、言葉と絵画を分離していた 「薄く、無色で、中性の細かい帯」のようなものが、ここでは存在 していない。いや、コンピューターというものにおきかわっている。 ここでは驚くことに、言語でなにかを示すことが、形態を表すとい うことに直結してしまうという空間が成り立っているのだ。

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『Algorithmic Beauty』藤幡 正樹

このようなことを表現した作品として、藤幡正樹の『Algorithmic Beauty』があげられるだろう。この作品では1000本の鉛筆を用いて 球をあらわしている。どのような配置かというと、「1000本の鉛筆 を、球面上のランダムな位置に置いていく」というものだ。つまり ある球面上のランダムな一点を計算し、その点に鉛筆のデータを置 いていく。それを1000回繰り返す。そのような処理手順を記述し、 コンピューターに実行させてできたのがこの画像というわけだ。そ の処理手順と画像とが、コンピューターを介して直結してしまって いるのだ。

コンピューターのalgorithmは、すべて言語により記述される。そ れを記述するということが、プログラミングということだ。よって、 コンピューターで行われる反復は、言語により規定された反復とな るのだ。言語は、有限の要素の組み合わせ、差異の組み合わせから なるものだが、そこでの組み合わせ全体の数というのは、ほぼ無限 と考えてさしつかえないほどの量になる。結局のところ、ある algorithmを選ぶということは、そのほとんど無限の組み合わせの 中から、一つを選びとることだ。コンピューターそれ自身は、処理 手順が明示されたことを順に行うことしかできない。しかし、その 処理手順の組み合わせが、ほぼ無限の量におよぶため、そこを<無 制限の有限>の可能性をひめた場としてとらえることができるよう になるのだ。

『それはもはや無限への上昇ではなく、有限性でもなく、<無制限 の有限>であって、有限数の構成要素が事実上無制限な組み合わせ の多様体を与えるような力の状況を出現させるのである。』ジル・ドゥルーズ

「Algorithmic Beauty」というのは、その<無際限の有限>の中から、 一つを選びとる過程にひそむ美ということではないだろうか。その ようにして、コンピューターにひそむ可能性としての美しさを提示 したのだった。マグリットは、『これはパイプではない』という作品で、伝統的な 西欧絵画の原理をつきくずした。『Algorithmic Beauty』は、<無 際限の有限>の中から選びとるという美を示すことで、コンピュー ターなどの技術が発達した、いわゆる情報社会といわれる現代の社 会における美のありかたを、作品として提示しえたのではないかと 思う。

脚注

  1. ミシェル・フーコー(Michel Foucault), 『これはパイプではない』(原題 Ceci n'est pas une pipe), 豊崎 光一, 清水 正 訳, 哲学書房, 1986.
  2. ミシェル・フーコー, 言葉と物.
  3. ジル・ドゥルーズ, 『フーコー』, 宇野 邦一訳, 河出書房新社.
  4. 浅田彰, 「やさしい絶望: マルセル・ブロータスへのアプローチ」, pp.101, 『BT 11月号』, 1988.
  5. Malsel Broodthaers, 『Marcel Broodthaers回顧展』カタログ, Walker Art Center, 1989.
  6. 「特集 反資本主義ハイパーリアリズム: ハンス・ハーケとイアン・ハミルトン・フィンレイ」, 『BT 10月号』, 1989.9.
  7. トーマス・バイルレ, 『高密度集積絵画』カタログ, UNAC TOKYO, 1989
  8. 西岡文彦, 『絵画の読み方』, JICC出版局, 1992.
  9. 椹.木野衣, 『シミュレーショニズム: ハウス・ミュージックと盗用芸術』, 洋泉社, 1991.
  10. 藤幡 正樹, 「アルゴリズミック・ビューティー」, 『アートラボ・コンセプトブック』, キヤノン, 1991.

この文章は、1993年のSALA festaで発表した文章を書き直したもの だ。また、初出は「環境情報学って何だろう 1994」という本で発 表した。この文章は参考文献にあげた浅田彰のテクストや、フーコー の『これはパイプではない』というエッセイに大きく依拠している ことをここに示しておく。

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